このページの最終更新:10th Jun 2002

誰のための賞


常連団体と招待演奏とは

少しでもコンクールに興味のある人、あるいは実際にコンクールに出たことのある人で あれば、毎年全国大会に顔を出す団体をいくつかご存知だと思います。そのなかでも 少数の団体は、毎年全国大会で金賞を獲得していることもご存知だと思います。
私たちは多くの場合、このような団体を常連団体と呼んだりします。中学・高校・大学の バンドであれば、常連校という場合もあります。この呼び方は吹奏楽に限ったことではなく、 高校野球をはじめとして多くの場面においてでてきます。

一方、吹奏楽コンクールでは、招待演奏という制度があります。これは、支部によって 条件は異なりますが、たとえば「全国大会に3年連続で出場した」というような、過去の優秀な 成績を条件としている場合が多いようです。コンクールのほかの出場団体と同じような条件で 演奏はしますが、審査の対象にはなりません。また、招待演奏に該当した団体は、無条件で 上位大会への出場権を得ることが多く、シード権をもっていることと同じことなのかも しれません。

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シード権の意味

ところで、この招待演奏によるシード権ですが、少し考えてみると、場面によっては 妙な部分のある制度であるともいえるのです。まずは、普通に考えたときのシード権の 役割を考えてみましょう。

たとえば、全国大会に3年連続出場した場合を考えてみます。テニスのような個人競技であれば、 何の違和感もありません。その人が実力で3年連続進出を果たしたのですから、その実力を 認め、称えることだからです。もちろん、テニスでは招待演奏に相当するものはないように 思われますが、シード権という意味では納得できるのではないかと思います。

次に、団体競技の場合を考えてみます。同じように考えるなら、同じ団体が進出を果たした 場合になります。このとき、普通なら3年間の間にその団体が変質することは考慮しません。 多くの場合、多少のメンバーの入れ替えはありますが、本質的な部分が変わってしまったり、 メンバーが総入替えされてしまうことは稀だからです。職場の吹奏楽団や、市民バンドの 場合も同様で、立ち上がりの時期だったり、職場が閉鎖されるなどの根本的な変化が ない限り、昔からのメンバーが多く残っているはずです。

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学校バンドのシード権

ところが、学校バンドの場合では少し様子が異なります。皆さんご存知のとおり、中学や高校は 3年、大学なら4年、高専なら5年で卒業を迎えます。中学以外は、様々な事情によって この年で卒業できないこともありますが、そういう例外を除けば高校生は3年で卒業しますので、 当然ながら4年前のメンバーは誰もいないことになります。
ここで、先ほどの「3年連続全国進出でシード」の条件を当てはめてみましょう。シード権を もっている年の3年生は2回、2年生は1回しか全国進出に貢献していません。1年生にいたっては、 全く関与する余地がありません。つまり、その年にはすでにいない先輩たちの力があって、 初めてシード権を獲得することができるのです。

こう考えると、今いるメンバーの貢献に対してシード権が与えられるという考え方では、説明が 難しいように思われます。もちろん3年生や2年生の貢献に対する部分はあるのですが、市民バンドと 違って、過去の実績の大半に多くの人がかかわっているという状況とは異なります。

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誰の実績なのか

では、説明しきれない部分を補うには、どう考えればよいのでしょうか。
ひとつは、先輩の実績を引き継いだことに対する評価、あるいは次の世代へ実績を引き継ぐ ことへの期待料、という考え方です。たとえ先輩が優秀でも、その技術を継承しなければ バンドとしての実力は落ちますし、当然全国大会に進出しつづけることは困難になります。 その困難を乗り越え、結果を維持しつづけたことに対する評価である、という考え方です。

でも実は、もっと直感的な考え方もできます。それは「全国大会進出は指導者の実績」と してしまうことです。すなわち、指揮者、顧問、監督、トレーナーなどの指導者が、必要充分な 指導を行なった結果として、そのバンドの実力が全国大会進出を可能にするレベルに到達した、 その事実に対してシード権を与える、と考えれば、先にあげたことを全部忘れても納得できて しまうのです。学校バンドのメンバーと違って、指導者は3年でいなくなることはありません。 むしろ、その学校の目玉として長く引き止めようとすることがあるくらいです。

もしそうだとすると、少し寂しいものがあります。極端にいえば、コンクールの賞は バンドのメンバーではなく指導者に与えられるもの、となってしまうからです。もちろん 実際には、必ずしも指導者ありきではないと思います。でも、一体どうなっているのか、 それぞれの人がそれぞれの立場で考えてみることも、あるいは必要なのかもしれません。

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